世紀を超越して考える「DXの栄光と挫折」
デジタルトランスフォーメーション(DX)が騒がしい昨今ですが、その過去はどうだったのか、また遠い未来にはどのようになっていくのか。それらを考えたうえで現在を見直すと、何が見えてくるのでしょうか。本記事では、MET2022(Macnica Exponential Technology 2022)において発表された、イエール大学教授であり経済学者・実業家である成田 悠輔 氏の講演内容をお届けします。
目次
DX20における従来までのデジタル課題とは?
DXをはじめとするさまざまなデジタルバズワードを考えると、私たちはあたかもそのバズワードで世の中が動いているかのように感じてしまいがちです。ただ一方で、社会全体を見てみると、ほとんどの人はその問題にまだ関心を持っていません。本当に世の中が良くなっているという実感を持てないまま、ただただ時間が過ぎているという側面もあるのではないでしょうか。
DXは、キラキラと輝く栄光の側面がある一方、世の中が意外に何も変わっていないと感じてしまいます。そうした観点から、DXが本当に世の中で栄光を作り出すためには何が必要なのかを考えてみます。そして、その先にはデジタルを超えて全てがデータになるような世界があるのではないか。そのような想像をしてみたいと思います。
これを踏まえて、どう考えればこのぼんやりとした問いに回答できるか。そのために、まずはDXを「DX20」「DX22」「DX21」の異なるステージに分けて考えてみます。
ここで言うDX20とは、20世紀のDXという意味です。20世紀に解決しておくべきだった、いわばDX以前の課題を表した言葉です。もう少し踏み込んで言うと、日本のほとんどの企業やほとんどの日本人、公的セクターを考慮すると、DXを本当に考えるのは10年早いのではないかと思わずにはいられません。なぜなら、DX以前に解決すべき社会課題や企業課題が多すぎるからです。
例えば、ハンコや署名のためだけにオフィスに行ったり、重要なことを語るときには電話をしなくてはいけなかったりするシーンは今でも当たり前に行われています。しかし、電話は何の記録も残さずに時間だけが流れていきます。さらには紙やFAXにも、まだまだ依存しています。一番根深いのは、これらは単にデジタルかアナログかという問題を超えた、非常に根深い問題だということです。
例えば、Excelの有用性を過信しすぎる、いわゆる「"神"Excel問題」も同様で、一見するとデジタルファイルですが、ほとんどアナログデータと変わらないほど使い勝手が悪い。そう考えると、旧世代が新しい世代に古いやり方を単に惰性で押しつけているだけのことが、世の中に大量にあふれかえっているように見えます。
大事なことは、1を0にする精神ではないかとよく考えます。よく0から1を作り出すイノベーションが大事だということが、いろいろなところで語られています。ですが、大量の書類や手続き、監修ルール、会議、打ち合わせ、約束といった「ない方がいい」ものがこの世の中にあふれかえっていることも大きな問題です。
この問題の背後には、「ない方がいい」ものを行うことで、私たち自身が何かをやっている気になってしまっている。そして時間がうまく過ぎ去ってくれるという、自分たちの中の惰性があると思います。自分たちのアイデンティティや社会の中での役割をあえて切り落としてでも、1を0にする努力をする必要があるのです。これがDX以前に求められていることと言ってもいいでしょう。
産業革命の可能性を秘めた「体のインターネット」
次に、もっと前向きで未来志向の「DX22」のお話をします。これは数十年後、あるいは100年後を見据えたときに、DXで社会がどう変わり得るか、長い目で想像してみようというものです。そうした大きな歴史的な流れを考えるうえで「八識」という重要な概念を考慮する必要があります。これは、人の意識や認知、あるいは情報処理といったものを、八つの異なる側面で分解した概念と言われています。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、のいわゆる五感はおなじでみですが、八識では6番目として、人間の持つ知性や合理性、判断力、さらには人間の感情や反射的に行ってしまう意思決定などを表す「意識」、7番目として、意識の裏側にあるエゴや嫉妬、無駄なプライドなどを示す「末那識」、8番目として「阿頼耶識」を含めています。なお、7番目までは個人で閉じているものですが、8番目の「阿頼耶識」は、生命として持っている歴史の流れの記憶、あるいは社会として営んでいる集合的な意識を指します。
この八識が、社会のデジタル化を考えるうえでのヒントになります。これまでのDXを考えると、八識のうち約半分、視覚や聴覚、触覚はデジタル化や機械化に成功してきたと言えます。逆に言えば、DXの今後に出てくる大きな課題は、残りの4つの意識のデジタル化ということになります。
例えば、味覚や嗅覚は複雑な化学物質が人間の口の中や鼻の中と相互作用し、それが脳にインプットされて反応を示しています。このプロセスをデータで表現したり、再現したり、あるいは開発プロセスを自動化できる可能性もあります。さらには、イベントやコンサートで周りの人たちと熱気を共有するライブ体験も、メタバース空間でできるようになっています。デジタル空間であれば、ひとつの場所に1000万人が集まることもできます。
このように、人間がこれまでデジタルデータで表現できなかった領域に、徐々にデータ、コンピュータ、インターネットが侵食しているのが現在と言えます。この変化は今後も起き続けるでしょう。モノのインターネット化の中で不可欠な生身の体が持っている感覚、さらには心までどうすればインターネットにつなげられるかが、具体的な課題となっています。
実際に、体のインターネットを考えると、もう起きつつあるといっても過言ではないでしょう。この5年ほどで私たちは、人間の体をいろいろなデジタルデバイスやセンサーに明け渡すようになってきました。
人間の脳や心、精神がインターネットにつながることも、少しずつ起きつつあります。例えば、うつ病の患者や、普通の人でも気分が落ちていってしまう状態を、脳の中の扁桃体をセンシングすることで脳活動のパターンを学習し、それが発生したときに脳の線条体を電気刺激することで気分が上げるといった研究報告も発表されています。
こうして人間の心までインターネットにつながれていくようになると、世界全体がデジタル化されるという方向に動き続けると考えられます。デジタル化というのは、いわばデータ化です。すると、私たちが認知できる単純な画像や音声、自然言語といった構造化されたデータを超えて、人間の身体や心で起きていることも含めた世界のあらゆる断片がデータ化される世界が徐々に訪れると思います。
その先にあるのは、この世界の始まりから今に至る歴史が、人々の思考や情念とともに全て記録されたアカシックレコードのような世界記録の概念が実際に登場するかもしれません。
また、少なくとも人間が八識を通じて認識できる世界についてのさまざまな断片は、順番にデータ化されていくでしょう。そのデータには、NFT(非代替性トークン)のようなものを通じてIDをつけたり、あるいは所有権のような権利を紐付けたりすることができます。重要なことは、それが法律の対象になる、そして経済契約の対象にできるということです。
例えば、医療では、人間の体や心がインターネットを経由してデータ化されるようになると、現在のように医療行為や治療に対してではなく、人間の体や心の状態、健康や幸福に紐づいた成果報酬を医療行為に対してお金を払うような経済契約を結ぶことも考えられます。保険商品においても、事故や疾患の発生ではなく、気持ちが落ち込んだときに自動的に保険金が下りるような保険をデザインすることもできるかもしれません。
このように、これまで経済契約や市場取引の対象にできなかったものまで資本主義の中に取り込まれていくことが起きると予想しています。そしてそれが、本当のインターネットを通じた産業革命を作り出すかも知れません。経済学者の観点から話すと、産業革命と呼べる生産性の爆発は作り出せていません。特に、21世紀に入ってからの20年は、ここ数百年で最も生産性の伸びが停滞している時代なのです。
ただ、逆に言えば私たちはインターネットの産業革命の前夜にいるとも言えます。産業革命が起きるとすると、先ほどのような万物がデータとなってインターネットにつながれ、経済契約や市場取引に組み込まれていくという、ある種の資本主義革命、金融革命が起きることによって、生産性爆発が起きるのかもしれません。
あらゆる人間活動のデータ化がDXの基礎に
最後に「DX21」として、現在の21世紀の話を過去と未来の話とつなぎ、DXの全体像を追いたいと思います。まず、中期的な展望を考えるときにヒントになる映画として「イーグル・アイ」を紹介します。スピルバーグ作品であるこの映画は、イーグル・アイという名前のアメリカ政府が国土を監視するために開発した監視AIの話です。
この映画を見ると、ある意味でDX化された社会、あるいは国家のビジョンそのものであることがわかります。DX化された社会の中で作り出されるデータと、それに基づく意思決定や政策の無限循環です。IoT化された街中に張り巡らされたセンサーを通じて、人々が何をしているのか、何に不満を持ってどんなことをしたいと思っているのか。そのデータを読み込んだ政策機械は、次に何を行うべきかを判断し、実行します。それが常時自動実行されているわけです。
現時点では、映画で描かれているような社会が実現するには至っていません。ただ、コストやスケール、スピードなどの問題が解決されていけば、近い将来にどこかでこのような世界が実現するのではないでしょうか。そして、ごく一部の産業、業界では、これに近い循環はほぼ実現していると思います。
例えば、典型的なWebサービスが挙げられます。ユーザーは、イーグル・アイの世界観における国民に相当します。サービスを動かしているコードも存在していて、これがイーグル・アイの原始的なバージョンと言えます。ユーザーがこのサービスを使うことで、彼らが何をしているか、何を求めているかなど、行動に関するデータを生成します。
データを生成するために使われる装置は、スマホやタブレット、PCといったものです。データが生成され、それを読み込んだコードが次にどんな商品を陳列すべきか、どんな値段を提示すべきか、誰にクーポンを発行すべきかといったことを判断し、ビジネスが自動実行される、その実行もまたスマホやPCが担う。こういう循環が起きているように見えるわけです。
私自身も、こういったサービスのデザインという、かなり堅実なDXデータプロジェクトにさまざまな形で携わって来ました。Web産業の一部では、すでに政策機械が実用されていると言えます。また、自動運転車やゲーム産業も同様です。しかし、これらは経済全体から見るとまだまだ小さい領域です。もう少し広い公共領域まで、同じ技術を浸透させていくことが必要です。そのためにあらゆる努力を、民間も研究者も、そして公官庁もしなくてはいけません。
社会全体を包み込むマクロな制度や、あるいは意思決定のためのOSまでDX化されると、人々の民意や好みなどを入力に使うので、そこに何らかの意思決定のためのルールやアルゴリズムをかませることで、何らかの社会的意思決定を行うことが起きます。それは、民主主義的な意思決定の仕組みに見えます。選挙は、まさにデータに基づく意思決定としての民主主義のひとつの典型的なあり方になっていると言えます。
現在の日本の選挙は、まだまだアナログな風習が残っていますが、ここにもっと世界の技術環境やデータ環境を取り込むことで、民主主義のあり方をもっと豊かにすることもできるかもしれません。ニュースや街頭演説、政見放送を見た感想や、SNSの情報も蓄積することで、最適な政策的意思決定を行うこともできるはずです。それにより、拡張されDX化された民主主義が実現できると思います。
ただ、この近未来の社会像に向かうにあたり、データがないという大きな壁が立ちはだかっていることも事実でデータをどう作るかが重要になっています。
Webビジネスと、公的セクターや企業では、規模やスピードの面で全く比較にならないという問題があります。つまり、とても大きくて速い存在であるWebビジネスに対して、公的セクターやほとんどの企業はとても小さく遅い存在です。この小さくて遅い存在が、いかに限られたデータを蓄積していくか。そして今後は企業同士、自治体同士でデータを連携させていくという問題が立ちはだかると思っています。
私自身もこの泥臭いデータを作るという問題に、今まさに取り組んでいるところです。例えば、子供が抱える問題に関するデータ作りです。日本では、不登校やいじめ、虐待がどんどん増えています。しかし、日本は人不足で、自治体もお金がない。そこで、困難を抱えている子供をデータの中から自動的に見つけてくる。そして、見つかった子供たちに、積極的に救いの手を差し伸べるプッシュ型の子供政策を模索しています。
つまり、この先100年を考えてみると、あらゆるビジネス領域と政策領域のデータ化、DX化を超えて、資本主義や民主主義といった社会のOSまで含めた国家全体のDXが射程に入ってきます。そして、そこに向けたさまざまなビジョンや青写真は、徐々に描かれつつある気がします。
それ以前に日本の社会を見てみると、DX以前の、ただの無駄の撤廃という「1を0にする努力」も同時に必要になってきます。この泥臭いつらい作業を率先してこなす人間が、産官学のあらゆるところで出てこなくてはいけない。それが今の日本社会の現状であり、「逃げてはいけない」というのが結論になります。